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5月4日 INOVATION @ 渋谷GLAD
このライブ”B級2”持参で二名まで無料で入れます。こんなchance滅多に無いので是非。自分のライブは朝三時二十分と深いですが一時間位のロングセットです。
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■園監督がバケモノを消した理由。それは震災ないし原発事変それ自体が我々の日常的な体験枠組(善/悪、快/不快…)を「本当にそうか」と保留させるからだ。実際、我々は、日常の中に非日常が島宇宙の如く浮かび、やがて日常に飲み込まれると感じてきた。
■だが二〇世紀史を振り返ると、少なくとも先進各国においては、「日常の中に非日常が(アブノーマリティとして)浮かぶ」という体験枠組と「非日常の中に日常が(ありそうもないものとして)浮かぶ」という体験枠組が「代わり番こ」になってきた事実が判る。
■園子温の映画版『ヒミズ』は、「見る神」の視座を「バケモノからの眼差し」から「事変からの眼差し」へと置き換えることで、私たちが再び「非日常の中に日常が(ありそうもないものとして)浮かぶ」という枠組にシフトしたことをアナウンスするかに見える。
■前述した園的モチーフからすれば、「日常の中に非日常が(アブノーマリティとして)浮かぶ」とする脳天気な発想は、日常の空虚を見て見ぬ振りをし続ける自己欺瞞(をもたらす洗脳)の帰結に過ぎない。園的モチーフはやはり一貫していると言えることになる。
■だがこの作品は、監督自身による自己理解に反して、「もはや終わりなき日常は終わった」とする巷によくある欺瞞的な宣言を、全く反復していない。なぜなら映画自体が「日常の中の非日常」から「非日常の中の日常」へのシフトに少しも留っていないからだ。
■今回の事変を「戦後」に倣って「災後」と呼ばせる既視感に象徴されるように、前述した「代わり番こ」が永久に終わらないことを我々は既に知っている。「もはや戦後は終わった」(1956年経済白書)も「もはや終わりなき日常は終わった」も、永久反復する。
■システム外部に見えるものはシステムが作り出したビジョンに過ぎないという認識に始まったポストモダンだが、ポストモダンの語義とも言える“「根拠」「外部」「実在」の脱臼”ゆえに、我々は今やノルベルト・ボルツの言う「サードオーダー」へと立ち至った。
■ファーストオーダー(相対一次)とセカンドオーダー(相対二次)を区別するサイバネティクスをもじる「サードオーダー」とは、セカンドオーダーを相対一次とする相対二次ではない。永久に相対一次/相対二次の区別が続くことへの鑑照的構え(テオリア)だ。
■そう。その意味で「もはや終わりなき日常は永久に終わらない」のであり、どんな大災害や戦争があろうが、ポストモダンがモダンへと回帰することは永久にない。そのことが突きつけられるからこそ、ラストシーンの「住田、がんばれ!」の連呼に落涙するのだ。
■だが二〇世紀史を振り返ると、少なくとも先進各国においては、「日常の中に非日常が(アブノーマリティとして)浮かぶ」という体験枠組と「非日常の中に日常が(ありそうもないものとして)浮かぶ」という体験枠組が「代わり番こ」になってきた事実が判る。
■園子温の映画版『ヒミズ』は、「見る神」の視座を「バケモノからの眼差し」から「事変からの眼差し」へと置き換えることで、私たちが再び「非日常の中に日常が(ありそうもないものとして)浮かぶ」という枠組にシフトしたことをアナウンスするかに見える。
■前述した園的モチーフからすれば、「日常の中に非日常が(アブノーマリティとして)浮かぶ」とする脳天気な発想は、日常の空虚を見て見ぬ振りをし続ける自己欺瞞(をもたらす洗脳)の帰結に過ぎない。園的モチーフはやはり一貫していると言えることになる。
■だがこの作品は、監督自身による自己理解に反して、「もはや終わりなき日常は終わった」とする巷によくある欺瞞的な宣言を、全く反復していない。なぜなら映画自体が「日常の中の非日常」から「非日常の中の日常」へのシフトに少しも留っていないからだ。
■今回の事変を「戦後」に倣って「災後」と呼ばせる既視感に象徴されるように、前述した「代わり番こ」が永久に終わらないことを我々は既に知っている。「もはや戦後は終わった」(1956年経済白書)も「もはや終わりなき日常は終わった」も、永久反復する。
■システム外部に見えるものはシステムが作り出したビジョンに過ぎないという認識に始まったポストモダンだが、ポストモダンの語義とも言える“「根拠」「外部」「実在」の脱臼”ゆえに、我々は今やノルベルト・ボルツの言う「サードオーダー」へと立ち至った。
■ファーストオーダー(相対一次)とセカンドオーダー(相対二次)を区別するサイバネティクスをもじる「サードオーダー」とは、セカンドオーダーを相対一次とする相対二次ではない。永久に相対一次/相対二次の区別が続くことへの鑑照的構え(テオリア)だ。
■そう。その意味で「もはや終わりなき日常は永久に終わらない」のであり、どんな大災害や戦争があろうが、ポストモダンがモダンへと回帰することは永久にない。そのことが突きつけられるからこそ、ラストシーンの「住田、がんばれ!」の連呼に落涙するのだ。





